研究講座
う蝕と歯周病の予防的治療@
国立保健医療科学院口腔保健部
花田信弘
プラークの形成
エンドポイント(Endpoint)とは,臨床疫学の用語で医療を評価するための評価項目をいいます.本当に評価したい項目を真のエンドポイント,そこまでに至る過程で便宜的に設定する評価項目を代理エンドポイントといいます.多くの医療で真のエンドポイント(True Endpoint)は死や障害あり,医療介入による死亡率の減少や障害の防止を評価します.しかし死や障害を真のエンドポイントにすると発症してからでは医師が元に戻せない(回復させられない)ので,そこまでに至る過程で便宜的に代理エンドポイントとして高血圧,高脂血症,糖尿病など検査値の異常を「疾患」と想定し,仮の疾患を治療対象にしています.
一方歯科医療では,“歯牙喪失”がこれまでの真のエンドポイントであり,治療の成果(アウトカム)は総義歯でした.歯周病治療,保存修復などの歯科治療はいずれ総義歯になる過程(プロセス)にすぎないと思われていました.しかし,8020運動が始まって,80歳になっても歯があるのが当たり前という概念が登場し,総義歯が歯科治療のアウトカムだとする考え方は成立しなくなってきました.歯科治療は,すべての患者のライフステージにおいてう蝕と歯周病にならないことを目ざすべきだという大胆な考え方が生み出されました.そこでう蝕と歯周病の治療学とは別にう蝕と歯周病の予防的治療(Preventive Treatment)という概念が登場しました.う蝕と歯周病の予防的治療のエンドポイントは,う蝕と歯周病を発症させないことです.発症させてしまうと元に戻せない(回復させられない)ので,代理エンドポイント(Surrogate Endpoint)を設定し,代理エンドポイントの治療を行うことが予防的治療です.
う蝕と歯周病の代理エンドポイントはMarsh1)が述べた細菌叢の変化だと思われます(図1).健康(Health)からエナメル質う蝕(Enamel Caries)根面う蝕(Root Caries)および歯周病(Periodontal Diseases)へ移行する際に細菌叢が変化するので,このような変化を代理エンドポイントと設定し,健康が維持できる細菌叢へ引き戻すことが予防的治療です.
図1 健康(Health)からエナメル質う蝕(Enamel Caries)
根面う蝕(Root Caries)および歯周病(Periodontal Diseases)へ移行する際に起きる細菌叢の変化(文献1から引用)
では,健康(Health)を維持する細菌とは何でしょうか?エナメル質う蝕(Enamel Caries)根面う蝕(Root Caries)および歯周病(Periodontal Diseases)を起こす細菌とは何でしょうか?このことを明らかにするためには,プラーク・バイオフィルムに関する最新の知識を学ぶ必要があります.そこで,ここでは2回にわけてプラーク・バイオフィルムの成立過程を解説します.
バイオフィルムの概念
しばらく風呂の水を落とさずにいるとバスタブの内壁面に,ぬるりとした感触の粘着物(スライムslime)が生じます.これが風呂垢で,住居環境にみられるありふれたバイオフィルム(生物膜)です.バイオフィルムはバスタブに限らず地球環境で水があるところならどこでも生じます.たとえば,台所の流し,まな板,コンタクトレンズ,川の石,花瓶の内部そして動物の歯にもはびこっています.微生物は目ではみえませんが,バイオフィルムとなってどんどん成熟すれば肉眼で見えるようになります.
地球環境の細菌の大部分は浮遊細菌ではなく,バイオフィルムをつくって生きていることがわかりました.バイオフィルムは人間の生活環境においてかならずしも悪者とは限らず有益な場合もあります.たとえば,汚水処理プラントは水から汚物を除去するためにバイオフィルムを利用します.しかし,ほとんどの場合バイオフィルムは人間の生活にとって都合のよい存在ではありません.バイオフィルムは水道管のパイプを腐食させ,水フィルターを詰まらせ,医療用インプラントが炎症を起こし,う蝕や歯周病の原因になります.
自然科学でバイオフィルムというときはヒトにとっての善悪は関係なく生物膜ならなんでもバイオフィルムです.しかし,医療の分野でバイオフィルムと言うときはヒトに感染症を引き起こす悪い存在だけを指します.そのためバイオフィルムの概念が少しわかりにくくなっています.
浮遊細菌とバイオフィルム細菌
これまで細菌学者は実験室内の液体培地に発育する浮遊細菌の研究に焦点を当ててきました.ところが,自然界では多くの細菌は浮遊細菌ではなくバイオフィルム細菌として凝集して存在していることが明らかにされ,今では研究の方法をバイオフィルムの実験へと変化させています.浮遊細菌とバイオフィルム細菌は非常に異なっているのです.
歯面のバイオフィルムは唾液中の浮遊細菌の発生源であり,それらの細菌の中には実験動物に感染や疾患を起こすものが多く含まれています.しかしその感染力や病原性は比較的弱く,急には病気を引き起こしません.細菌がバイオフィルムをつくって同じ部位に長く存在し続けることで徐々に疾患を引き起こしていくタイプです.一般的なバイオフィルム細菌である緑膿菌は免疫系の抑制された動物にだけ感染します.ミュータンスレンサ球菌も蒸留水を飲んでいる動物には感染せず,砂糖水を飲まされている動物に感染します.歯科衛生士は患者への説明責任(アカウンタビリティ)を果たすために浮遊細菌とバイオフィルム細菌のちがい,口腔のバイオフィルムがどのようにできてくるか,口腔のバイオフィルムが起こす問題,そしてどうしたらそれを制御できるかを知らなければなりません.
バイオフィルムができるまでの段階
朝の歯磨きで歯をつるつるに磨き終えたとたんに,歯面には新たなバイオフィルムの準備が始まります.歯のバイオフィルムは要約すると以下の5つのステージで成熟し完成します.
第一ステージ: 歯の表面のペリクル形成
歯科衛生士による専門的な歯のクリーニングで歯面がぴかぴかに磨かれたあと,歯の表面に付く最初の物質は細菌ではなくて唾液中の有機物です.図2の歯面(Tooth Surface)の突起物が唾液中の有機物を表しています.これらをまとめてペリクル(図2ではAquired pellicle)といいます.しかし唾液中の有機物がなんでも歯にくっついてペリクルをつくるわけではありません.エナメル質を構成しているハイドロキシアパタイトに結合する特定のタンパク質が選択的に歯面に結合してペリクルが出来上がります.そのような性質を持つタンパク質は複数ありますが,PRP(proline-rich proteins)とスタテリン(statherin)は特にハイドロキシアパタイトへの結合能力が高いことが知られています2).
図2 歯面のバイオフィルム:歯の表面には唾液成分に由来するペリクルが形成されていて,ペリクルに親和性のある特定のレンサ球菌が定着する.歯周病菌は初期定着群(Early Colonizers)の後からバイオフィルムを形成するので後期定着菌群(Late Colonizers)である3).
第二ステージ:初期定着菌群の付着
歯の表面はかなり粗造な形をしています.歯はフラクタル表面といって,「数学的には無限」の表面積を持つ凸凹が形成されています.「数学的には無限」の表面積を持つ凸凹が存在すると表面荷電が生じます.しかしペリクルが歯の表面にできるので,歯の表面に存在する過剰の表面荷電は中和されます.このような理由で電気的な働きで雑然とでたらめに細菌が吸着されることがなくなり,細菌はペリクルを構成する特定のタンパク質にレセプター(receptor)とアドヘジン(Adhesins;adhesion ligands)の関係で理路整然と結合するようになります(図2)3).アドヘジンは細菌細胞壁の表面に存在する特別な蛋白質です.細菌は宿主細胞やペリクルのレセプターに結合してから細胞表面や歯の表面でコロニーを作るようになります.何かに結合しないとコロニーがつくれないのです.ペリクルのタンパク質のレセプターに付着してコロニーをつくり始めるのが初期付着菌群(図2ではEarly Colonizers)と呼ばれる特定の口腔の常在菌です.
具体的には,Streptococcus mitis, Streptococcus oralis,Streptococcus gordonii, Streprococcus sanguisなど特定のレンサ球菌が,口腔常在菌の中の初期付着菌群に該当します(図2).また,ヒト口腔粘膜細胞の物質をレセプターとしてアドへジンが存在する細菌が本来の常在菌です.S. mitis,S. oralisは歯が生える前の乳児からも高頻度で検出されるので,この2つの菌が本来の口腔常在菌だと考えられます.なお,初期定着菌群はペリクルの表面で増殖しますが,その際にペリクルはそれぞれの細菌の栄養源になっていると考えられています.初期付着菌群には無害な細菌が多いので,口腔内の優勢菌がつねに初期付着菌群であることが望まれます.予防歯科の立場で言えば,毎日の歯磨き,歯間部清掃で第一ステージと第二ステージの間を行き来して,初期定着菌群の健全な育成を図り,歯周病菌など後期定着菌群(Late Colonizers)を多く含む第三ステージへ移行させないことが大切です.
文献
1)Marsh PD, Microbiological aspects of the chemical control of plaque and gingivitis. Dent Res. 1992 71:1431-8.
2)Lamkin MS, Arancillo AA, Oppenheim FG. Temporal and compositional characteristics of salivary protein adsorption to hydroxyapatite. J Dent Res. 1996 75:803-8.
3)Kolenbrander PE, Andersen RN, Blehert DS, Egland PG, Foster JS, Palmer RJ Jr. Communication among oral bacteria. Microbiol Mol Biol Rev. 2002 66: 486-505.