研究講座
生き残り戦略としての医事紛争対処法@
大阪歯科大学助教授 歯学博士 法学修士
佐久間泰司
1.はじめに
私が医療過誤を中心とした法律学の勉強を始めたのは歯学部の2年生の時で,すでに26年間経過しました.つい数年前まで法律学を学んでいるというと「いやいや医事紛争は大切ですからね」と口では感心される一方,「相当,変わったご趣味ですな」などと奇異な目で見られたものでした.
ところがここ数年,私が26年前に睨んだとおり医事紛争は急激に増加し,歯科医師はその対策に翻弄されています.いまや医療過誤で医師歯科医師側が高額の賠償金を支払うばかりでなく,逮捕されたり実刑判決を受けることも稀ではありません.時代は大きく変わったのです.
歯科医師にとって医事紛争や医療過誤は,賠償金支払いという直接の経済損失だけでなく,患者に苦痛を与え,さらに地域での信頼に影響するために対策を常に考えなければなりません.歯科医院経営上は,医事紛争に巻き込まれることで生じるデメリットをいかに最小限にするかが重要です.
ところが医事紛争は,逆に患者を増やすという積極的な戦略としても非常に重要であることが最近,やっと認識され始めてきました.医事紛争時の対応が良かったために患者が近所に宣伝してくれ,地域で最も信頼される歯科医院になったという話は現実にいくつも存在します.そこで「生き残り戦略としての医事紛争対処法」という視点から3回にわたり解説したいと思います.
2.どんどん増える医事紛争
最近,新聞紙上では医事紛争の増加を報じる記事をよく目にします.最高裁判所の公表する医療過誤訴訟の件数(年間新受訴訟数)はみごとな右肩上がりを示しており,訴訟数は20年間で3倍になりました(図1).医療過誤訴訟が増えていることは事実で,医事紛争も同じように増えていると考えてよいでしょう.では将来は,医事紛争の件数はどうなるのでしょうか.
残念ながら,今後も間違いなく件数は増加します.10年間で2倍以上になります.それは弁護士を大幅に増やす法曹改革が断行され,司法試験の合格者数が年間500人から1,200人になり,数年後には年間3,000人になるからです.大量の合格者により昨年10月にやっと2万人を超えた弁護士数は,2010年には今より5割多い3万人,2030年には7万5千人を超えると思われます.これは現在の歯科医院数(約7万軒)を超える数字です(図2).いまは街でめったに出くわすことのない法律事務所の看板が,2030年には歯科医院と同じだけ目につくことになります.
弁護士の増加は何を意味するのでしょうか.弁護士が3倍になれば,弁護士1人あたりの収入は3分の1になるのでしょうか.そんなことはありません.歯医者が増えても国内の総虫歯数は増えませんが,弁護士が増えればそれだけ依頼される仕事量は増えます.つまり弁護士の増加に応じて紛争件数は増えるのです.いまは弁護士事務所の数も少なく敷居が高いのですが,そのうち患者は歯科に行くのと同じ気軽さで法律事務所に駆け込み,気軽に歯科医師を訴えることができるようになるのです.
3.医事紛争の原因
医療過誤というと,チェア上で患者が死亡するというような深刻な健康被害が思い浮かびます.歯科での死亡事故は決して少なくなく,麻酔剤などの薬物アレルギー,循環器疾患などを合併した患者の急変,小児の気道閉塞(実はこれが非常に多い)などが原因となっています.私の専攻する歯科麻酔学はこのような歯科治療中の全身管理を目的としており,救急蘇生法を含めた講義・実習を学生諸君に行っています.
ところで医事紛争処理の現場では,深刻な健康被害が生じた事例が決して少なくはないものの,頻度的には「説明が不十分だ」「電話の応対が悪い」「治療費が高い」「服に薬品がついて変色した」といった健康被害以外の紛争が多く,特に説明不足および未承諾治療は紛争全体の4割を占めます.しかし歯科医師は自然科学者であるために「説明が不十分だ」と文句をいわれても,口では謝りつつも内心は「治療が完璧であることが名医の条件だ.完璧な治療をしたのに文句をつけて,困った患者だ」と思い,それが顔に出てしまいます.法律的には説明不足は相当高額な損害賠償請求の対象であるにもかかわらず,きちんとした対応ができていないのです.ここに生き残り戦略のヒントがあります.
4.患者の気持ちを理解する
それでは本題に入りましょう.医事紛争が起こったときに最初にすることは,患者の気持ちを理解するように努めることです.患者の気持ちを理解する上で大切な3項目は次のとおりです(図3).
1)患者はあなたを愛していた
そもそも紛争は,当事者同士がいったんは信頼関係で結ばれた過去がなければ起こりません(ごく一部の例外がありますが).夫婦喧嘩が良い例です.お互いに信頼がなければ期待もしないので紛争にはならないのです.トラブルになった患者といえども,その歯科医院で一度は治療を受けたということは,過去にその歯科医院を信頼して受診したということです.その歯科医院に何年も通院した患者なら,何年も歯科医院のファンだったことになります.家族ぐるみで来ていれば,家族ぐるみでサポーターだったことになります.紛争はその信頼を裏切られたと患者が感じるところから始まります.患者が感情的に怒っているとしたら,紛争が起こったことで「可愛さ余って憎さ100倍」となっていることに気づくべきです.
紛争に対して誠実に対応すれば,その歯科医院のサポーターに戻って頂けるかもしれない反面,不誠実に対応すれば近所に悪評を立てられるかもしれません.医事紛争時の対応が良かったためにその患者が近所に宣伝してくれ,地域で信頼される歯科医院になったというドラマのような話は本当にあります.逆に対応が不十分だったために近所のマンション全戸に匿名の中傷ビラを入れられ,毎日受付で1時間ほどゴネて診療に差し支えた例もあります.
2)患者は予後に対する不安が強い
歯科医師が専門家であるがゆえに気のつかない事項です.患者が怒っているときは,予後への不安が原因で怒っている場合が少なくありません.リーマー破折であれば,折れたリーマーが血管に入って心臓に刺さると本気で思います.サホライドを皮膚に落として黒く変色すれば,このまま一生色が落ちないのではないかと信じます.患者は歯科については素人であり,専門家の立場から予後について適切なアドバイスが必要です.
予後の説明は,紛争当事者の歯科医師による説明が絶対に必要ですが,説明しても患者が十分に納得しないことがあります.そこで第3者(歯科医師会など)に間に入って貰ったり,高次医療機関(大阪歯大病院や病院歯科など)を紹介して予後について説明してもらうと上手くゆくことがあります.
どのような場合でも患者の第1の希望は健康の回復であり,賠償金の入手は2番目以降の希望です.このことは紛争解決で絶対に忘れてはならないことです.
3)患者は怒っている
患者はいうまでもなく「あの歯科医院で,とんでもない目に合わされた」と思っています.しかも原因は歯科医院のミスにあると固く信じています.患者に対して「歯科治療は関係ない」と言っても,責任回避としかとりません.歯科医師に責任のないことまで背負う必要はありませんが,怒っている患者をさらに怒らすようなことを言う必要もありません.責任がなければ責任を認める必要がないのは当然です.対応をうまくやることと,責任を認めることは全く異質なことです.
また1カ月も2カ月も患者が怒り続けることはありません.すこし冷却期間を入れてから対応すると,意外にスムーズに運ぶことがあります.