研究講座

生き残り戦略としての医事紛争対処法B 

大阪歯科大学助教授 歯学博士 法学修士

佐久間泰司

 

6)応対では専門用語を避ける

 歯科の専門用語は患者には分かりづらいものです.しかもセメントとかエンジンとか,世間では別の意味に使われている言葉もあります.患者が理解しているような顔をしていても,実際は間違って理解していることもあります.患者の中には「右上の6番が」とか「抜髄してもらったのですけど,残髄していまして」などと専門用語を使う人もいますが,このような場合でも歯科の用語を実は正しく理解していない場合があります.相手が理解していると思われても専門用語はできるだけ避け,簡単な言葉で説明するようにします.絵を多用して説明すると,患者の理解は余計に深まるでしょう.相手が医師や看護師など医療関係者であっても,硬組織疾患については十分な理解がない場合もあります.

 説明に際しては,「ここまでお分かりになりましたか?」「質問はありますか?」などと,患者の理解を確認しながら話を進めることが大切です.

7)その患者は大勢のなかの1人ではない

 1日に何十人もの患者と接する歯科医師にとっては,その患者は大勢の中の1人に過ぎないでしょうが,患者にとっては自分の体はかけがえのない大切なものであり,他の患者よりも大切に扱って欲しいものです.患者を待たせたために苦情を言われた時,「他の患者が多くて・・・」などと言い訳をすれば「あなたは私にとっては大勢の患者の1人に過ぎません」と言い放っていることになり,「私の体が世界で1番」と思っている患者は不快になるでしょう.あくまでも患者の身になり気持ちになり,「大変長い間お待たせしました.申し訳ありません」と誠実に応対することが必要です.

 患者から「この先生は本当にいい先生だ」という信頼を得れば,医事紛争は9割解決したといっても過言ではないでしょう.

8)患者の家族など患者の周囲にも気配りをする

 医療過誤が起こり,よく説明したことで納得してもらっても1週間〜半年後にクレームをつけてくることがあります.家族や知人が無責任に煽り立てた結果かもしれません.未成年患者であれば必ず,成人患者であっても経済的に両親から独立していない時は両親に説明を忘れずに行います.最近は親離れが遅れる傾向にあり,40歳までの独身男性であれば,同居する母親がキーパーソンになることがあります.成人だからといって本人だけを見ていると失敗します.

 

7.苦情患者との位置関係

患者との位置関係も応対には重要です.位置関係は大きく分類すると,リラックス型,友達型,権威型の3つにわかれます(図1).位置関係は紛争処理のみならず日常診療でも参考になりますので,頭に入れておいてください.

 

1)リラックス型 

患者と歯科医師の関係が90度であり,おたがいに横顔が見られる関係です.この位置がお互いに一番リラックスして対応できます.

2)友達型 

患者と歯科医師が横に並んで座る関係です.この位置はお互いの距離が近いので信頼感をもって対応でき,恋人同士が好んで座る位置関係です.しかし距離が近いのというのは相手のプライベートゾーンに踏み込むことになるので,応対の初期でこの座り方をすると逆に嫌悪感を生じる危険があります.ある程度回数を重ね,相手の反応を見ながらこの位置関係に座るほうがよいでしょう.交渉の中盤から終盤はこの位置関係で行います.この位置関係はカルテやレントゲンや模型など,ひとつしかない資料を検討する場合に好都合で,しかもそのような作業を通じてさらに信頼関係が結ばれるという利点もあります.

3)権威型 

患者と歯科医師が向かい合って座る関係です.お互いに目が合うことで威圧感・緊張感が生じ,教室での教師と生徒の位置関係に利用されます.特に教壇のように一方が高い位置であれば,権威を感じさせることにもなります.

この位置関係は示談書の締結など,お互いに緊張して交渉すべき時に使いますが,相手をリラックスさせることができないので普段の交渉に使うと逆効果になります.

 

8.謝罪について

患者が全く誤解していて一切の落ち度が歯科医師にないのであれば,もちろん謝罪する必要はありませんし,謝罪してはいけません.毅然としていればいいでしょう.謝罪するというのは過失を認めるということですから,謝罪した以上は撤回することもできませんし,責任逃れをすることも許されません.しかし歯科医師に責任がある時はどうでしょうか.交通事故では謝罪するな,と保険会社にいわれますが,これは「保険会社の指示なく謝罪するな」ということです.保険会社は事実関係を確認したあと,加害者に責任があれば謝罪に行かせます.入院中なら見舞いに行かせますし,死亡事故なら葬式に参列させ,霊前で謝罪することすら求めます.被害者(遺族)の感情を和らげ,和解交渉を有利に進めるためです.

医療事故の場合,責任があったら謝罪しろとアドバイスする人がいません.しかも謝罪すると罪を認めたことになり取り返しがつかないなどと聞かされているので,ついつい歯科医師は謝罪をしない方がいいと思ってしまいます.このために紛争が複雑化してしまう例が少なくありません.説明不足や未承諾歯科治療など,一部でも歯科医師に落ち度があれば,その点については謝罪すべきです.謝罪することで紛争が解決した例は結構多いですし,「謝ってさえ下されば良かったんです」と患者が後からいうことも少なくありません.強硬だった患者に謝罪したら,「いや先生,私も言い過ぎました」であっけなく解決した例もあります.悪いことをしたら謝る,単純なことです.もっともこのことは,責任がないのに謝罪しろという意味ではありません.謝罪は責任を認めることです.

医事紛争処理一般にいえることですが,紛争解決のノウハウは府県歯科医師会等に思いのほか蓄積されています.謝罪すべきかなど紛争解決で悩んだら,府県歯科医師会紛争処理部門等に連絡をして適切な助言を得ることが大切です.

薬剤の副作用の場合,医薬品副作用被害救済制度という製薬会社の拠出金で作った財団から給付金が出る制度がありますが,謝罪すれば(すなわち過失を認める)給付が受けられなくなりますので注意が必要です.

 

9.医事紛争こそ,生き残りの貴重な情報源

患者がクレームをつけてきたり,医事紛争に巻き込まれたりすると,歯科医師は気が重くなります.責任が重い歯科医業に嫌気がさしたので子供を歯科には進ませたくないという同級生の声も聞きますが,大歯に勤務する私にとっては非常に困る話でもあります.たしかにクレームや医事紛争は嫌なものですが,実は生き残りの貴重な情報源,宝庫でもあります.

1)ハインリッヒの法則 

アメリカの保険会社の安全技師ハインリッヒは1941年,労働災害5,000件を分析してひとつの法則を導き出しました(図2).それは重大災害を1とすると,軽傷の事故が29,そして無傷災害は300になるというものです.つまり1件の死亡事故が発生する背景に29件の軽傷事故,300件のヒヤリとする出来事があるという警告です.さらに300の無傷害事故の底辺には無数の不安全行動と不安全状態があったとも指摘しています.

普通はヒヤリとする出来事が起こっても「ヒヤリとしたね.ケガがなくてよかった」で片付けてしまいます.しかしヒヤリとした出来事を報告させ,きちんと分析し,2度と起こらないようにすれば,ヒヤリとした出来事は確実に減少し,おのずと軽症事故も減少し,重症事故も起こらないのです.この法則は医療事故にも応用でき,大阪歯大病院でも今井院長を中心にヒヤリとしたりハッとした事例(ヒヤリハット報告書)の蓄積が進んでいます.ハインリッヒの法則は,比率は異なっても世の中のあらゆる現象に応用できるといわれています.クレームに応用すれば,受付で怒鳴り散らす激怒した患者1名,普通に怒る患者29名,ちょっと文句を言う患者300名の3種類に分けられるでしょう.ちょっと文句を言う患者に対してきちんと対応すれば,おのずと激怒する患者を減らすことができるのです.

2)苦情慣れの罠

 患者を待たせてちょっと文句を言われたときに,「待たせたら文句を言われたけど謝っておいたわ.いちいち院長の手を煩わせないで処理するのが有能な事務員よ」と受付が勝手に判断するようでは負け組です.受付は苦情慣れをしてしまい,そのうち大きなクレーム(激怒患者)を引き起こすでしょう.ではどうすればいいか.ちょっとした文句でも患者の声はすべて院長に上げ,現場に反映させて日々の仕事に直結させて改善します.待たされて文句を言った患者は言ったことを絶対に忘れません.どのように改善されるか期待もしています.直ちに改善しなければなりません.まずは1分でも待たせる時間を少なくする方策を従業員全員で考えます.また待たせてしまった場合,患者に文句を言われる前に謝るとか,なぜ遅れているか説明するとか,どのくらい遅れるかこまめに歯科衛生士が連絡するとか,クレームの出ない方法に改善してゆきます.このように小さなクレームを改善すれば,ハインリッヒの法則により大きなクレームも自動的に減るのです.

3)情報源としてのクレームや医事紛争 

患者が他の歯科医院に移るには理由があります.その理由は患者に面と向かって聞いても教えてはくれません.患者は黙って他の医院へ移るだけです.ところがクレームや紛争となると,患者は雄弁に歯科医院の不満や悪口を語ります.大きな紛争から得る情報が参考になるのは当然としても,小さなクレームであっても気がつきにくい医院の欠点を反映している場合があり貴重です.小さなクレームも見逃さずに院長に情報が上がり,クレームや紛争を患者の気持ちを理解しつつ適切に紛争処理をし,さらに再発防止のために情報が適正に活用されたとすれば,潜在的な不満も含めた医院の問題点がおのずと解決されることになるのです.すなわち医事紛争こそ,積極的な生き残り戦略の貴重な情報源なのです.