安全な治療のためにF
ロンドン大学客員教授・松本歯科大学教授
笠原 浩
特殊な症状に対する救急処置と薬剤
前回には,患者さんの全身状態が急変した場合には,まず意識の有無をチェックしてみること,そして意識喪失状態と判断されたならば,ただちに「心肺蘇生のABC 」を開始しなければならないことを,お話しいたしました.薬剤(D=Drugs)は,A(気道確保),B(人工呼吸),C(心マッサージ)が確実に施行された後に,投与されるべきものなのです.
その理由は,クスリを使わなくても「心肺蘇生のABC 」だけで患者さんの脳死を防ぐことが可能であり,最初の重要な時間を薬剤の投与で費やしてはならないからです.さらに,クスリは使い方によっては毒となることもあり,病態をよく観察した上で慎重に投与しなければならないからでもあります.
しかしながら,特定の症状に対して特効薬的な効果を期待できる場合も少なくはありませんので,ここではそのいくつかを解説してみます.
1.ショック
表1 ショック状態への対処法
@ ショック体位にする 処置は中止して,水平仰臥位に A 意識喪失の有無を確認する 呼びかけに反応しなければ,ただちに「心肺蘇生のABC 」を開始する B 酸素吸入 C 原因追求と薬剤投与 アナフィラキシーではエピネフリン筋注 ステロイド剤(ヒドロコルチゾン)静注 |
ショックとは「異常な血圧低下」を伴う循環不全で,脳の血流量の急激な低下により意識喪失を来たした場合には,その原因がなんであろうとも,ただちに「心肺蘇生のABC 」で生命を守らなければなりません.
(1)神経性ショック
歯科診療の場で最も遭遇しやすいのは,乱暴な局所麻酔の注射等に伴う「疼痛性ショック」や,三叉 迷反射による「神経性ショック」です.これらはいわゆる一次ショックで,通常は頭部を低くして安静にしているだけでまもなく回復するはずですが,副腎皮質機能不全のある人(リウマチや喘息などで,ステロイド剤の長期投与を受けていた患者など)では,血圧低下の持続により二次ショックに移行するおそれがありますので,ヒドロコルチゾン(ソルコーテフなど)の静注が必要となることもあります.
(2)アナフィラキシー・ショック
ペニシリン系抗生剤や非ステロイド系抗炎症薬などが原因となって,激烈なアナフィラキシーが起こることがあります.問診や皮膚反応によってあらかじめ確認しておくべきですが,症状が発現してしまった場合には即刻の救命処置が必要になります.
薬物の投与直後に患者さんが不快を訴え,皮膚発疹などのアレルギー症状がみられた場合には,0.1%エピネフリン(ボスミンなど)0.2mlを筋注または皮下注射します.ステロイド剤もしばしば有効です.
(3)出血性ショック,心原性ショックなど
これらの二次ショックでは,輸血などの根本的な治療が必要ですが,応援が到着するまでは「心肺蘇生のABC 」で持ちこたえなければなりません.
2.けいれん
てんかん発作,過換気症候群(きわめて速い呼吸をしている),局所麻酔薬中毒などで,歯科診療の場でもときとして全身けいれんが発症することがあります.激烈な症状ですので,初めて見るとびっくり仰天するかも知れませんが,少なくともからだが動いている間は死にませんので,あわてなくても大丈夫です.
通常は数分間以内に自然におさまりますから,むしろ患者さんに恥ずかしい思いをさせないように配慮してあげてください.
ただし,けいれん重積状態(長時間持続する,次の発作がすぐ起こるなど),あるいは情緒状態がきわめて不安定(過換気症候群など)であるような場合には,ジアゼパム(セルシン,ホリゾンなど)0.2〜0.3mg/kg(成人で10mg前後)をゆっくり静注します.
表2.激烈な全身けいれんへの対処法
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安静と刺激の排除 体動を無理に抑えるな! 口をこじ開けるな! A保護と監視 意識と呼吸が戻るまで目を離すな! Bジアゼパムの静注 けいれんがおさまるまでゆっくりと! C原因の追求 |
3.突然の呼吸困難
(1)気道閉塞による窒息
歯科診療中に小器具や修復・補綴もの誤って咽頭に落とした場合,通常は嚥下反射によって胃に入るはずですが,号泣中の小児患者や咽頭の反射機能が低下している高齢者などでは,気管に吸い込むおそれがあります.気道が完全に閉塞されれば,窒息して数分間で死に到ります.抑制治療中の幼児や高度の衰弱者などで,無理やりの大開口による舌根沈下,あるいは嘔吐の誘発による窒息死の事故も起こっています.
吸 い込まれた異物は,声門付近に存在していることが多いのですから,まずはバキューム・チップを深く挿入して吸引を試みるべきです.
直 接的にはどうしても除去できない場合には,背部叩打法(平手で肩甲骨の中間を叩く)やハイムリック法もありますが,完全な窒息で死の寸前となれば,気管切開(甲状 輪状靭帯切開法)をためらってはなりません.
(2)喘息発作
表3 −A 喘息発作時の救急処置
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上体を起こしてやる(起座呼吸) A 吸入剤(気管支拡張薬)を吸入させる B 酸素吸入 C エピネフリン筋注 D ヒドロコルチゾン静注 |
激しい呼吸困難からチアノーゼを呈することもありますが,呼気性の障害(吐き出せない)ですので,気道内異物などの吸気性の障害とは区別できます.反復性の発作ですので本人や家族はよく分かっているはずですし,発作を鎮める吸入剤も持っているでしょう.
(3)過換気症候群
表3−B 過換気症候群への対処法
@ 異常に速い呼吸を是正する 対話により不安・恐怖感の緩和を図る A ビニール袋などで,呼気を再呼吸させる B 症状が強ければ,ジアゼパム静注 0.2〜0.3mg /kgをゆっくり静注する |
ヒステリーや情緒不安定の傾向がある人では,歯科治療への恐怖感から呼吸回数が著しく増加し,急激な呼吸性アルカローシスの結果として呼吸困難や気分不快,ときには意識障害や全身けいれんを生じることがあります.顔色不良や血圧低下を出現せず,脈拍の緊張も良好ですので,鑑別は容易なはずです.
(4)心血管性の呼吸困難
俗 に「心臓喘息」といわれるもので,循環障害の症状として呼吸困難が現れることがあります.次項で説明します.
4.突然の胸痛
表4 虚血性心疾患(狭心症・心筋梗塞)発作時の救急処置
急激な胸痛(絞扼感),胸内苦悶が特徴 @ 治療をただちに中止して楽な姿勢をとらせる 上体を起こし,胸元をゆるめる A 冠拡張薬(ニトログリセリン舌下錠など)の投与 B 痛み(胸痛,歯痛)の緩和と酸素吸入 低濃度笑気吸入鎮静法が有用 C 意識喪失時には「心肺蘇生のABC 」を! D 救急車の出動要請 心筋梗塞ではCCU への早期移送が必要 |
(1)狭心症,心筋梗塞
歯科治療に伴う痛みや精神的ストレスで発作が誘発される可能性があります.胸が締めつけられるような
痛み(狭心痛)が特徴的ですが,ときには左下顎に放散する痛みを「歯の痛み」として受診する場合もあり,要注意です.
これまでまったく異常がなかった人が,突然発作を起こすことは稀ですから,既往歴を確認しておきましょう.多くの患者は冠拡張薬を持っているはずです.
ただし,心筋梗塞の強い発作では,容易には症状が改善しないことがあります.心原性ショックで意識喪失した場合には「心肺蘇生のABC 」を続けながら,病院に移送しなければなりません.
(2)その他
可能性はずっと少なくなりますが,急性心膜炎,気胸,解離性胸部大動脈瘤なども,突然の胸痛の原因として考慮に入れておくべきです.
5.突然の意識障害
表5 −A 脳卒中(脳出血,脳梗塞)発作時の救急処置
突然の意識障害や麻痺の発現が特徴 @ 応答が確認できなければ,ただちに「心肺蘇生のABC 」 枕をはずし,頭部後屈による気道確保が最優先 A 嘔吐による誤嚥の防止 麻痺側を上にした側臥位の昏睡体位にする B 酸素吸入 C 救急車の出動要請 なるべく早く病院(ICU )へ移送する |
(1)脳卒中
歯科治療に伴う痛みや精神的ストレスによる循環動態の急激な変化が,脳卒中を誘発する可能性はけっして低くはありません.ただちに上記のように対処を図るべきです.
(2)てんかん発作
通常は刺激をせずに安静にしているだけで,まもなく回復するはずです.なお,抗てんかん薬によるコントロールが適切になされている症例では,歯科診療の場で発作が起こる可能性はほとんどありません.
(3)低血糖発作
表5 −B 低血糖発作が疑われる場合の救急処置
糖尿病患者が気分不快を訴え,顔色不良や冷汗が認められた場合には,低血糖発作を疑う |
糖尿病を合併している患者さんでは,歯痛や長時間の歯科治療などで食事をとれずにいると,血糖値の低下により意識障害やけいれんが生じることあります.
(4)局所麻酔薬中毒
現在繁用されているキシロカインなどの局所麻酔薬の安全域は十分広いのですが,極端な大量使用や血管内注射ではときとして急性中毒による意識障害やけいれんが現れることがあります.意識喪失には「心肺蘇生のABC 」,けいれんにはジアゼパム静注で対処します.プソイドコリンエステラーゼ欠乏症などの異常さえなければ,時間の経過とともに症状は改善されるはずです.
(おわり)