安全な治療のためにC
ロンドン大学客員教授・松本歯科大学教授
笠原 浩
「痛くない局所麻酔」
1.「痛い麻酔」はナンセンス
歯科治療に伴う痛みやそれに対する不安・恐怖感などのストレスによって,しばしば循環動態の急激な変動が惹き起こされます.歯科診療の場で生じるショックなどの緊急症の大半は,こうした原因によるいわゆる「神経性ショック」です.生理的予備力の低下している高齢者などでは,危険な発作や既存の全身疾患の急性増悪を誘発する恐れもあります.
ですから,確実な無痛法の技術をマスターしておくことは,患者さんの苦痛を緩和するための思いやりとともに,「安全な歯科治療」のためになによりも大切な前提条件なのです.
日常診療でもっとも広く使われる無痛法は「注射による局所麻酔」です.ところが,多くの患者さんが「歯肉への注射」を最大の恐怖の対象と感じているという皮肉な事実があります.一時代前までなら「病気を治すのだから少しぐらいは我慢しろ」という「医者の思い上がり」が通用したのかも知れませんが,無痛化のための注射が「痛い」と恐れられていたのでは,まさにナンセンスそのものです.
少なくとも,表6 に示したような「痛い注射」は絶対に避けるべきです.
表6
「痛い注射」−歯科の麻酔注射はなぜ痛いのか
@ 敏感な組織への刺入 例:骨膜下注射,歯髄内注射,切れない針の使用 A 強圧による組織損傷 例:術者の手が痛くなるような強圧注射 B 注射液の変質 例:強酸性の注射液(期限切れによる変質) C 組織の虚血(後疼痛) 例:歯肉が真っ白になるような浸潤麻酔 D 感染(後疼痛) 例:不潔なポケット付近での歯根膜注射 |
2.注射部位の選定(どこに注射するのか?)
痛くなく,しかも確実な麻酔効果を得るためには,神経解剖学にもとづいた正しい部位に注射しなければなりません.
注射すべき部位は,@どの歯を処置するのか?A周囲の歯肉の麻酔も必要か?――によって自動的に決まります(表7).
たとえば,上顎の生活歯の切削や抜髄であれば,その歯の根尖相当部の歯肉頬(唇)移行部1カ所だけで十分です(歯髄の麻痺を得るためには口蓋側への注射は不要ですのに,保存学の教科書のなかにはいまだに誤った考えが生きているものがあります).
抜歯や盲嚢掻爬などであれば,口蓋側歯肉の麻酔も必要ですが,硬い付着歯肉を真っ白にするような浸潤麻酔(強圧を要する=痛い)はあまり賢明な方法ではありません.口蓋神経外側枝の走行を考えれば,もっと内側の軟らかい粘膜下へのより少量の注射(強圧を要さない)でよいことが理解できるはずです.
さらに,隣接する数歯を同時に処置する場合などには,犬歯窩,上顎結節後面,オトガイ孔付近などでのフィールド・ブロックや,下歯槽神経ブロック(いわゆる下顎孔伝達麻酔)などを利用すれば,1回の注射で広い範囲の麻酔が得られるなど,術者にとっても患者さんにとっても大きなメリットがあります.
表7 歯科治療のための局所麻酔の注射部位
対象歯 |
歯髄を支配する神経 |
歯髄に対する麻酔 | 歯肉の麻酔も必要な場合 | |
上顎 |
中・側切歯,犬歯(乳歯,永久歯) | 上歯神経叢(前上歯槽枝) |
対象歯の根尖に相当する歯肉顎最後方臼歯の歯肉頬移行部での頬神経ブロック* |
切歯孔付近での鼻口蓋神経ブロック対象歯の根尖に相当する歯肉 |
乳臼歯,小臼歯 | 〃(前・中上歯槽枝) | 口蓋粘膜下での大口蓋神経外側枝のブロック** | ||
大臼歯 | 〃(後上歯槽枝) | 上顎結節後面付近でのフィールド・ブロック |
下顎 |
中・側切歯,犬歯(乳歯,永久歯) | 切歯枝(下歯槽神経) | 対象歯の根尖に相当する歯肉唇(頬)移行部あるいはオトガイ孔付近でのフィールド・ブロック | 対象歯の舌側歯肉への浸潤麻酔(下歯槽神経ブロックをしている場合には不要) |
乳臼歯,小臼歯 | 小臼歯枝(〃) | |||
大臼歯 | 小歯枝(〃) | 下顎孔における下歯槽神経ブロック |
最後方臼歯の歯肉頬移行部での頬神経ブロック |
*犬歯窩にカートリッジ半量程度の注射液を“置いてくる”だけで,前歯(中切歯は反対側からの交叉支配があるため,根尖付近に追加したほうがよ
い)から小臼歯までが,一挙に麻酔できる.
**臼歯の口蓋側歯肉縁と口蓋正中線との中間部付近の軟らかい粘膜下に無圧的に注射できる.
3 .「痛くない局所麻酔」の実際
(1)刺入時痛と圧入時痛
注射の痛みは,@注射針を刺すときの痛み(刺入時痛)と,A組織内に注射液を押し出すときの痛み(圧入時痛)とに大別できます.これらに不安や恐怖感と関連した痛覚過敏状態が加われば,耐えがたいものともなりかねません.しかし,これからお話しするような適切なテクニックを用いるならば「本当にチクンとするだけ,予防注射なんかよりもはるかに痛くないよ」と,自信をもって患者さんに断言することができます(表8).
表8
「注射の痛み」とその対策
@ 刺入時の痛み(刺入時痛) ← 刺入点粘膜への表面麻酔薬の塗布 ← 鋭利な細い注射針の使用 A 薬液圧入時の痛み(圧入時痛) ← 強圧を加えない(GSL注射法) |
(2)心理学的な痛み対策
@ 恐怖感の緩和
強い恐怖感を抱いている患者さんは,しばしば痛覚過敏状態になっています.前もって対話を確立して,心理状態にも十分な配慮を示してあげてください.たとえば「できるだけ痛くないようにそーっとやりますよ」と話し,「痛かったら手を挙げて合図してください.けっして無理はしませんから」などと保証をしておくと,患者さんも安心します.
A 注射器は目に触れないように
無用な視覚刺激を避けるために,注射器は患者さんの目に触れないようにすることが原則です.
B 必ず予告してから
黙ってプスリはいけません.針を刺入する直前には「ちょっとチクンとしますよ」と予告するようにします.相手がききわけのない子どもであったとしても,尋ねられた場合には「注射はしない」と嘘をつくべきではありません.
C 鎮静法の応用
それでもなお,不安や恐怖感が強く,話しかけによっても容易には緊張がほぐれないような患者さん(過去に痛い注射で懲りごりしている人など)には,低濃度笑気吸入鎮静法や静脈内鎮静法の併用がきわめて有用です(表9).
とりわけ,笑気はそれ自体に痛覚閾値を高める効果がありますし,被暗示性を高めますので,上手な暗示誘導が使える歯科医師にとっては,きわめて有用なものです.
表9
心理学的な痛み対策
不安,恐怖感は痛みを増幅する… @ 対話と十分な説明 患者さんの信頼を得ておくことがなにより A 無用な刺激を避ける 注射器は目に触れないようにする B 刺人前には予告する 「ちょっとチクンとしますよ」などと. だまし打ちは厳禁 C 鎮静法の応用 とくに低濃度笑気吸入鎮静法が有用 |
(3)刺入時の痛みの緩和
@ 刺入点粘膜への表面麻酔薬の塗布
粘膜下の痛覚受容器(神経の自由終末)は,比較的浅いところに存在しています.痛点の分布が密とされる歯肉頬(唇)移行部でも,適当な表面麻酔薬を塗布で容易に麻痺させることが可能です.
具体的には,キシロカイン・スプレーR液(直接に口腔内に噴霧するのは乱暴です)やハリケインR液などを小綿球に含ませ,刺入点となる粘膜(一般的には処置歯の根尖相当部の歯肉頬移行部)に1〜2分間接触させておきます.
A 鋭利な細い注射針の使用
組織の損傷を最小限にするために,30G前後のディスポーザブル注射針を使用してください.
(4)薬液圧入時の痛みの緩和
−GSL注射法の実際−
表10
GSL麻酔法
Gently,Slowly and with Light pressure (そーっと静かに,ゆっくり,強圧を加えずに) |
@ 注射器の受渡し
術者は,仰臥している患者さんの頸部の上に右手を出して,アシスタントから注射器を受け取ります.注射器が患者さんの目に触れないようにするためです.
A 患者さんに話しかける
「今日は特別に痛くないように注射しますよ.そーっとゆっくりやりますから,痛かったら大げさに顔をしかめて見せてください」と,話しかけます.
B 浅く刺入して一滴だけ注出する
「ちょっとチクンとしますよ」と予告してから,刺入点に置いていた小綿球を除去し,左手で粘膜を緊張させて,針の先端だけを浅く刺入します.そしてほんの一滴だけを注出して,そのまま10〜20秒間針を動かさずに待ちます.
表面麻酔が効いていても,針が刺入されたことは分かりますから,神経質な患者さんでは顔をしかめるかもしれません.しかし,針を動かさなければその後の痛みはないはずですから,「まだ痛い?」と意識的にトーンダウンさせた声で尋ねてみてください.「今は痛くないでしょう?だったら力を抜いてもっと楽にしてごらんなさい」などと誘導します.
C そーっと,ゆっくり針を進める
患者さんの表情が和らいだら,次の一滴を注出して,それが粘膜下組織から骨膜の方へ拡散するのをまた少し待ちます.そして,さらに一滴また一滴と薬液を少しずつ出しながら,少しずつ深部へと針を進めていきます.
D ゆっくりと薬液を注出する
針先が所要の部位(一般的には処置歯の根尖相当部の骨膜付近,骨膜下に針先を入れないように注意する=傍骨膜麻酔)に到達したら,患者さんの表情を観察しながら軽い力でピストンを押して,そーっと静かに(Gently),ゆっくりと(Slowly)薬液を注出します.絶対に強圧を加えない(with Light pressure)ことが無痛的注射のポイントです.
もし抵抗が強いようでしたら,注射部位を考え直してください(付着歯肉や歯問乳頭部,あるいは骨膜下では強圧が必要になりますが,薬液が入っていく余裕がない緊密な組織に無理やり注射することは,痛いばかりでなく,組織を傷害する恐れもあるのです).
(この項つづく)