安全な治療のためにB

ロンドン大学客員教授・松本歯科大学教授

              笠原浩

2.往診の準備

 新規の患者さんへの初回往診(訪問診療)の実際ということで,話を進めます.

(1)往診目的の再確認(なにをしに行くのか?なにができるのか?)

 主訴その他の情報を整理して,初回往診の目的(表4)を再確認しておきます.診療室での通常の外来診療とは本質的に異なることをお忘れなく.

           表4 初回往診の目的

 1.患者の診察

  @ 主訴についての問診と診査・診断 

  A 一般状態についての問診,診査と評価

  B 口腔内診査と歯科的健康状態の評価

 2.患者本人と介護者(家族,施設職員など)へのオリエンテーション

  @ 主訴に関連した病状についての説明

  A とりあえずの治療方針についての説明と協議

 3.可能な範囲内での応急的治療処置

  @ 急性症状とりわけ痛みの緩和

  A 疾患の可及的進行阻止

  B口腔清潔度の改善

 決定的(根本的)治療は,この時点での目的とすべきではない!

(2)患家との打ち合わせ

 患者側でも準備が必要なことを忘れてはなりません.歯ブラシ,洗面器,タオル,ティッシュ・ペーパー,コップ,水,保険証,交通費の実費などは,あらかじめ用意しておいてもらうようにします.

 日時の設定にあたっては「直接の介護者」が必ず同席できることが大切です.主治医や訪問看護担当者にも同行してもらうことができれば大変に好都合です.

(3)携行器材

 私たちは長年の経験から「初回往診には回転切削器械などは持参しないほうがよい」と考えています.表5に示したような診察用器材と,主訴から考えられる応急的治療処置のための最小限の器材・薬品だけにするのがよいと思います.ただし,歯科往診を求められる主訴の約半数は義歯のトラブルですから,そのための器材については別に考えてください.

                 表5 往診のための診察用機材

 大型懐中電灯,ミラー,ピンセット,探針,エキスカベーター,歯ブラシ,診察用手袋,ガーゼ,アルコール綿花,カルテと記録用具

(4)直前に再確認を

 出発直前にも「これからうかがいます」と電話し,患者さんの状態などをたずねてください.全身状態が悪化して,歯科治療どころではないようなこともあるからです.

3 .患家に着いたら

(1)アプローチ

 患者さん本人(高度の障害でまったく話が分からない人でも)とご家族に笑顔を示して挨拶しましょう.介護者へも「毎日ご苦労さまですね」などと,ねぎらいの言葉を忘れずに.

(2)口の中を見る前に,全体的な観察を

@患者さんには最初は一番楽な姿勢(ふだんの睡眠時の体位など)でいてもらいます.

A横に座って「どうなさったのですか?」などと話しかけながら,患者さんの手を握り,手首で脈を診ます.顔色,皮膚の状態(貧血,浮腫の有無など),話しかけ に対する応答状況などを観察します.

B患者本人から聞き取ったこと(痴呆や言語障害でまったく会話ができない場合もあるが…)について,家族や介護者,同席していた訪問看護担当者などに補足を求 めます.

C主要なバイタルサイン(脈拍数,血圧など)については,ただちに記録しておきます.新規の往診では,なんらかの急性症状を訴えていて,患者側からも「先生, この歯が…」などといきなり言われることが多いでしょうが,口の中を見る前に最小限でも脈だけは診て記録することを忘れないでください(表6).これによ って,少なくとも患者さんの一般状態にある程度は目を配る余裕が得られるからです.家族や介護者に「歯医者さんでも,口の中だけではなく,全身状態に配慮しているのだ」と印象づける効果もあります.なお,カルテに脈拍数だけでも記録されていれば,万一の事態が生じた場合には,注意義務を怠らなかったという証拠にもなりますから,そうした意味でもこれはとても大事なことです.

                表6 脈拍の記録法

 例:72(6),やや不整,緊張やや不良

 1分間の脈拍数,結滞(脈の欠損)があれば( )内に1分間の数を記入する.リズム,緊張もチェックする.

(3)口腔内診査を始める

@手袋を装着しながら,「ふだん身の回りのお世話をしてくださっているのは,どなたですか?」と,直接の介護者(奥さん,お嫁さんなど)に患者さんの枕もとに 来てもらいます.

A「それではお口のなかを拝見いたしますので,照明をお願いします」と言って,介護者に懐中電灯を手渡します.ポータブルの無影灯をはじめ,さまざまな照明器 具はありますが,介護者に積極的に関与していただくために,ここでは懐中電灯を用いるのが一番良いのです.

Bある程度は動かせる患者さんでしたら,床に座った診査者のひざの上に頭をのせる形で仰臥してもらい,後上方から口腔内を観察します.これが診査者と患者さん の双方にとって,最も安定した「診やすい姿勢」です.

C完全に「寝たきり」の患者さんならば,そのまま寝床の横あるいは後方から診査します.状況によっては多少上体を起こしてもらうと楽ですが,循環動態が不安定 な患者さんでは急激な体位変換は避けるべきです.

D口腔内診査の結果は,チャーティング(赤青鉛筆によるチャート記入)によりカルテに記載します.診査しながら,それぞれの部位の所見を家族や介護者に分かり やすく説明し,その状況と症状との関連性や問題点を周囲の人たちに理解してもらうように努めます(これが家族や介護者に照明係を依頼する最大の目的です).

(4)口腔内診査と同時進行で保健指導を

@口腔内に食渣などが滞留している場合には,歯ブラシ(ふだん患家で使用しているものを出しておいてもらいますが,必ずしも適当なものではないことが多いの で,少なくとも1本は持参してください)で除去しながら診査を進めます.歯ブラシは随時ティッシュ・ペーパーで拭き取ってください.より適切な口腔清掃法 や糜爛した歯肉に対する歯ブラシの当て方についても,「こうすればもっときれいになりますよ」「このように一方通行で擦れば,そんなに出血しないでしょう?」などと,診査と同時進行で介護者に指導していきます.

A患家でいままで使用されていた歯ブラシについて,その適否や使用上の問題点について説明します.

B実際に歯ブラシを使って,適切な口腔清掃法を実演して見せます.義歯が入っていれば,取り外して,これも実際に清掃して見せてください.

C口腔清掃が多少なりとも適切に行われていたら,それを称賛して,意識的に陽性強化を図ります.

(5)「当面の治療計画」を立てる

 在来のDOS(Disease Oriented System =疾患治療中心型の医療)から脱却して,患者さんの問題点の解決を主目的としたPOS(Problem Oriented System  =課題解決型の医療)の考え方を身につけてください.なお,POSについては参考文献を参照してください.

@問診と全身的な診察,口腔内診査から得られた情報を総合して,主要な問題点を緊急度の順に(♯1,♯2,・・・と番号を付けて)書き出してみます._ 次 に,それぞれの問題点に対する「とりあえずの対策」を書き出してみます.

A問題点とその対策を総括し,自分の能力を勘案した上で「当面の治療目標(少数回の訪問診療で,どこまで問題点を改善できるか?)」を立て,それを具体化した 「当面の治療計画」案という形で患者側に提示します.

B患者側の了解が得られれば,それを「当面の治療計画」として,家族などの目の前でカルテに記入しておきます.できればインフォームド・コンセントとして,一 定の書式にサインをしてもらうことが望ましいところです.

4 .可能な範囲内での応急的治療処置

これまで繰り返して強調してきましたように,訪問診療(とりわけ新しい患者さんへの初回往診)では,歯科疾患の決定的(根本的)治療を主な目的とすべきではありません(表4参照).診療担当者の側ばかりでなく,患者側にとっても情報不足・準備不足な段階で,強いストレスを伴う治療処置の強行は危険を招くことがあるからです.ですから,少なくとも初回往診では,回転切削器具などは持参しないほうが賢明なのです(口腔外で処置する義歯補修などは別ですが…).

ところで,麻酔の注射や歯質切削などの侵襲の大きい処置なしでも,痛みなどの急性症状の緩和はかなりのところまで可能です.問診と全身的な診察結果から,患者さんの一般状態を評価して,ここまでならば大丈夫という範囲内の治療処置をしてあげてください.

ハイリスクの患者さんで,どうしても緊急に抜歯などプライマリ・ケアのレベルを超えた治療処置が必要と考えられた場合には,ただちに適当な二・三次医療機関(病院歯科など)に依頼すべきです.

なお,応急的治療処置の実際については,稿をあらためてお話したいと思います.

「いつでも,どこでも,だれにでも」

主目的はプライマリ・ケアだとはっきり認識してくだし.どんなにハイリスクの患者さんでも,お話をよく聞いて診察し,専門家として適切なアドバイスを与える,そして,一般状態の評価にもとづいて,可能な範囲内での応急的な手当をする…これだけのことなら特別な心配はないでしょう.「まずは診てみる」と,在宅歯科医療にもっと気軽に取り組んでいただきたいのです.

ところで,寝たきり状態のお年寄りに訪問診療で製作された義歯の半数以上が結局は使用されていない…という残念な事実が存在していることをご存知でしょうか.病気を取り除いた(欠損が補綴された)だけでは,けっして十分ではないのです.

「内科往診学」を書かれた川上武先生は「往診の本質は『緊急往診』ではなく『定期往診』にある」と言われました.急性症状を緩和した時点は,訪問診療の終点ではなく,ようやく本当のスタート・ラインに立ったのだと考えなければなりません.在宅歯科医療の真髄は,ご不自由があるお年寄りを定期的に訪問して,QOLを支える大切な柱である「歯の健康」を守ることにこそあるのではないでしょうか.

在宅医療には,不採算その他多くの問題点が未解決のまま残されています.しかし,これに真剣に取り組むことによって,ともすれば「歯」のみに目を奪われがちだった歯科医師に,「人間」や「社会」への視野が拡がってくるという大きなメリットがあることを強調しておきたいと思います.(つづく)