安全な治療のためにA

 

ロンドン大学客員教授・松本歯科大学教授

笠原 浩

 

ハイリスク患者への訪問歯科診療

「『楽しい老後』のために歯の健康が大切だ」ということを多くのお年寄りが認識するようになってきた結果,義歯関係だけではなく,歯質の切削や外科的処置をも必要とする有病高齢者の歯科受診が急速に増加しています.

こうした患者さんでは,歯科治療に伴う痛みや精神的ストレスによって既存の全身疾患の急性増悪や危険な発作を誘発するおそれがあることは,前回お話ししたとおりです.今回は,自宅や特別養護老人ホームなどで療養中の有病高齢者を,最もリスクの高い患者さんの例として取り上げ,私たちが訪問診療(在宅歯科診療)に際してどのように対応しているかを具体的にお話しします.

 

両極端の対応?

 私は10数年前から全国各地の歯科医師会などで「在宅歯科診療のノウハウ」についての講演をさせていただいています.多くの先生方からさまざまな経験をうかがうなかで,現場では両極端の対応が見られるのに気づきました.ひとつは「触らぬ神に祟りなし」というきわめて消極的な態度です.困っている患者さんが往診を依頼してきても「ポータブルの器械がないから…」などの口実で尻込みなさる先生がいまだに多いのは残念なことです.

 一方,ご自分の費用でワゴン車を改造して診療機器を積み込むなど,きわめて積極的に取り組んでおられる先生も少なくはないのですが,こちらの側では「木(歯)を診て,森(人)を診ない」という歯科医師の陥りがちな落とし穴の存在が気になることもないとは言えません.

 無闇に怖がっての逃げ腰も,その逆の「怖いもの知らず」的な無謀な対応も,その原因として共通するのは,在宅医療とその対象患者についての知識不足です.

 人口の高齢化と歯科医療需要の変貌に対して,きちんとした対応が必要なことは当然ですから,これからの時代に在宅診療への積極的な取り組みを避けていることはできません.しかしながら,患者さんのご自宅や施設に出張しての歯科診療(往診あるいは訪問診療)は,診療室での外来診療とは本質的に異なるものだと考えるべきです.まずは,表1に示したようなリスクが存在することを常に念頭に置いてください.

 このような困難な問題点を列挙しますと,思わず尻込みしたくなる先生もおられることでしょう.実際にも数多くの事故(必ずしも医療ミスではありません)が発生している事実があります.しかしながら多くの場合では,結果的に患者さんの状態を悪化させ,ときには死亡につながるようなことがあったとしても,訪問診療をした歯科医師はご本人あるいはご家族から多大の感謝をされていることも,また事実であり,「歯科医療という仕事がいかにやり甲斐があるかが初めて分かった」と言われる先生が多いことをお伝えしておきたいと思います.

1 在宅歯科診療のリスク

.医学的な問題点: ハイリスク

@対象となる患者さんは,自力で通院できる状態ではないのですから,生理的予備力が著しく低下していると考えなければなりません.わずかな刺激でも,循環動態の変動が生じやすく,また回復も遅れがちです.最も極端な例では,長年にわたって寝たきりの方が体位変換(床の上で上半身を起こして座位にするなど)だけでも急激な血圧低下を生じたことが報告されています.

A既存疾患(虚血性心疾患,脳血管疾患など)の急性増悪や発作の再発の危険が常に存在しています.

B感染に対する抵抗力も著しく低下しているおそれがあります.

C麻痺がある患者さんでは,口腔内の唾液,水,血液,削片などの誤嚥(気道内への落下,吸引)のおそれが少なくないのです.

Dところが,こうした患者さんへの歯科治療のリスクが必ずしも理解されてはいません.万一事故が起これば「たかが虫歯の治療で」などと非難されかねません.

.歯科医学的な問題点:診療内容の制限

@携行できる診療機器には限度があります.ポータブル・ユニットなども市販

 

されてはいますが,必ずしも十分な機能を備えてはいません.照明,吸引,防湿など,精密な歯科治療の前提条件をきちんと整えることはかなり難しいと言わなければならないようです.

A患者の体位も制限されることが多いでしょう.知的能力や言語能力が障害されている患者では,診療に対する自発的な協力も期待できないことがあります.

B患者側の理解不足で,対症的な治療のみが求められがちです.アフターケアなど包括的な医療の必要性への理解は得にくいことがしばしばです.

.社会的な問題点:不採算その他

@歯科医師の個人的な努力に依存されがちです.時間的な困難性や診療報酬面での不備など,歯科領域での訪問診療の特殊性について,地域社会の理解と協力はまだまだ不十分です.

A必要な場合には患者を受け入れてくれる後方支援病院の存在が不可欠なのですが,そうした重層的な地域医療システムが確立しているところは,まだあまり多くはありません.

B医療事故や訪問途中での交通事故などの危険に対する補償も,必ずしも確立してはいません.

 

往診先で手術を始める医師はいない

 さて,ここで「在宅歯科診療の目的」,つまり歯科往診あるいは訪問診療は「なにをしに行くことなのか」を,もう一度見つめ直してみることにしましょう.

 多くの先生方が「歯科疾患の治療」が目的だとお考えのようですが,私はそれはとんでもない勘違いだと思っています.歯科往診(訪問診療)はけっして「歯科治療の出前」であってはならないのです.

 歯科疾患の大半は実質的なものですから,罹患歯質の切削,感染歯髄の除去,抜歯などの「外科的な処置」がなされなければ「決定的(根本的)治療」にはなりません.しかもそうした処置を精密に施術するためには,設備の整った診療室や診療機器が不可欠です.どんなに高価なポータブル・ユニットや移動診療車を使用したとしても,診療室内でのレベルに到達するのは無理というものでしょう.ですから「出前治療」では,どんなにがんばっても結果的には「低レベルの治療」となってしまいます.また,そうした処置はかなりの痛みや精神的ストレスを伴いますから,前述したようなリスクを無視できません.

 一般医の往診(訪問診療)を考えてもみてください.どんなにベテランのドクターでも,往診先でいきなり手術を始めることなどありえないでしょう.ある程度以上の侵襲を伴う外科的処置や手術が必要と判断されたら,患者を病院に入院させて,必要にして十分な機器を用意し,手厚い全身管理下で施術するに違いありません.歯科疾患であっても例外ではないはずです.

 

目的はプライマリ・ケア

 歯科でも医科でも同じことです.在宅医療ではキュア(cure =病気の治療)よりもケア(cure =予防や健康増進を含めた広義の医療)に重点が置かれなければならないのです.とくに個人開業医による地域の第一線での在宅医療の主な目的は「プライマリ・ケア」だと,まず明確に認識してください.これに気がつけば,ハイリスクその他の問題点はまったく苦にならなくなるはずです.逆に患者さんの日常生活空間で診療するという,診療室では得られないメリットを生かすこともできるようになるのです.「病気を治しに行く」のは大変ですが,「まずは診てみる.患者さんと話をして,そしてできる範囲内のことをすればいい」と割り切っていいのです.とにかく,それが一番安全であり,しかも患者さんの側に喜んでいただけることなのですから.

 なお,「プライマリ・ケア」については,WHO のアルマアタ宣言(1978)をはじめ,その定義や要件を示す文献がいくつもありますが,ここでは私たちの在宅歯科診療の進め方の実際を,順序を追ってご覧になることで,ご理解していただきたいと思います.

 

在宅歯科診療の実際

.往診依頼を受けたら

(1)まずは情報の収集

 在宅診療のスタートは,多くの場合,急性症状を持 った患者さんへ

表2 往診依頼を受けた時点で記録すべき事項

@患者の氏名,年齢,性別

A主訴(どんなことでお困りなのでしょうか?)

B往診が必要な理由(なぜ通院困難なのでしょうか?)

C依頼者の氏名および患者との関係

D連絡方法(いつ,どこで,どんな方法で)

E依頼を受けた日時と応対者のサイン

の往診依頼(家族の来院あるいは電話など)という形になります.先生は診療中で忙しいでしょうから,この時点では受付担当者に表2 に示した事項を記録させ,後刻ゆっくりとお話をうかがうようにしましょう.必要事項を記入する「往診依頼書」があらかじめ用意されていれば便利です.

(2)直接の介護者(家族,施設職員)への問診

患者本人の日常的な状況を熟知している介護者から直接話を聞くことを,往診の不可欠な前提とすべきです.できれば面談したいところですが,電話でもある程度は可能です.最小限でも表3 の事項についての情報を入手したうえで,その後の対応(往診を引き受けるか否かも含めて)を決定します.時間的に余裕があれば,主治医や訪問看護担当者からも話を聞いておきたいところです.

  表3 往診依頼への対応を決定するための最小限の問診事項

@主訴:どこが,いつから,どんなふうに? そして,

どうしてほしいのか?緊急度は?

A一般状態:ADL (摂食,排泄,衣服の着脱,歯磨きな

ど)の自立度は?合併疾患の病状は?

Bコミュニケーション能力:意思疎通が可能か?治療の

必要性を理解できるか?

C患者の環境:直接の介護者は? 患家へのアクセスは?

D歯科的既往歴:これまでの歯科治療はどこで?

(3)対応方法の決定と患者側との協議

患者側についての情報と診療担当者の側での問題点とを総合して,対応方法を決定しなければなりません.緊急度が高い場合には,次のいずれかとなります.

@可及的すみやかに自分で往診する.A救急車を要請して患者を搬送させる.B別の医療機関に紹介する.

なお,特別な器材がなくても「診察」と「応急処置」は可能なのですから,どんな患者さんでも「まずは診てみる」を原則としたいものです.

対応方法が決定したら,すみやかに患者側に説明して同意を得るよ

うにします.とりあえず診察した上で,今後の治療についてはあらためて相談する(診察イコール治療ではないということ)旨を,はっきりと伝えておくことも必要です.

 

(この項つづく)