安全な治療のために@
ロンドン大学客員教授・松本歯科大学教授
笠原 浩
歯科治療には危険が一杯
歯科治療はさまざまな危険を伴っています.狭小な口腔内で高速回転切削その他の微妙な処置を行わなければならないのですから,わずかな手違いでも大変な事態を生じかねません.院内感染の防止や各種の薬剤の使用にも十分な注意が必要です.
ところで,歯科医師や医師,なかでも心臓外科や脳外科の専門医たちは,保健衛生の専門家であるにもかかわらず,その平均寿命はむしろ短いそうです.これはそうした職業の人たちの日常が大変にストレスに満ちていることが原因だといわれています.
毎日の仕事なのですから,できるだけ楽しく,また長く働き続けていきたいものです.ストレスを最小限に抑え,いつもリラックスした状態で診療していくためのキイワードはといえば,なによりも「安全」なのではないでしょうか.
本稿では,先生やスタッフが安心して診療に従事できるばかりでなく,患者さんにも安心して治療を受けていただけるよう,「安全な歯科治療」とくに患者さんの生命を脅かしかねないような重大事故を未然に防ぐためのヒントをいくつか差し上げたいと思います.
死亡事故は増加傾向
私は日本歯科麻酔学会が発足後しばらくの問,事故対策委員を務めていました.全国各地でのさまざまな医療事故(公表されないものも多い)の情報を集めて分析していたのです.
歯科での死亡事故数は,当時は平均して1 年間に1 0例前後でした.そのなかには,抜去歯やクラウンの誤嚥による窒息や,麻酔薬の過量投与による呼吸障害(イギリスでは死亡事故が続発したために,歯科医師による全身麻酔がきびしく規制されるようになってしまいましたが,日本ではきわめて稀です)など,担当医の重大なミスによるものも含まれてはいますが,大半は歯科診療中あるいはその前後にたまたま循環不全や意識障害などを発症して死亡したという症例でした.後者は必ずしも医療過誤と関連するとはいえないものですが,人口高齢化の進行につれて近年では着実に増加しつつあります.
「元気な外来患者」はまず大丈夫だが
心疾患(狭心症,心筋梗塞など)と脳血管疾患(脳出血,脳梗塞など)は現在でも日本人の主要死因となっています.これらはいずれも加齢による動脈硬化が基盤となるのですから,一定以上の年齢になればどんな人にもその素因はあると考えなければなりません.
そして,寒冷や排便時のいきみ,あるいは強い精神感動(テレビのプロレスで興奮するなど)といった刺激あるいはストレスによって,狭心発作や脳卒中発作などが誘発されて倒れることになるのです.
たとえば,寒い時期に暖かくおやすみになっているお年寄りが布団から出ただけで発作を起され,ときにはそのまま死亡されるような例が,しばしば経験されているはずです.
そうした一見些細な刺激と比較すれば,歯科治療に伴うストレス,とりわけ歯肉への注射や生活歯切削の痛み,それらに対する恐怖感などは,はるかに強烈なものです.多くの高齢者を取り扱う循環器専門医のなかには「歯科治療の場での死亡例がそんなに少ないのは不思議だ」と言われる先生もいるほどです.
しかしながら,これはけっして不思議なことではありません.理由は「これまでの歯科医院には元気な患者さんだけが受診していた」からなのです.自力で通院できるということは,それだけの生理的予備力が備わっているのですから,多少のストレスには十分に耐えることができます.
万一,術者の手も痛いような強圧注射の痛み刺激で,神経性ショック(いわゆる脳貧血症状など)を起こしたとしても,元気な若い人たちならば,そのまましばらく安静にしているだけで自然に回復することを期待してもよいでしょう.
ところが,高齢者の歯科医療需要が急増しつつある現在では,生理的予備力がいちじるしく低下している患者さんを診療する機会がけっして少なくはないのです.とりわけ自力で通院することができなくなっている「在宅歯科診療」の対象者は,これまでの「元気な」外来患者とは本質的に異なった存在であることを意識しておかなければなりません.
「歯」を診る前に「人」を診る
老後のQOL (生活の質)維持向上の柱のひとつとして歯の健康の意義が高く評価されるようになってきたことは,「8020」運動が着実に成果をあげつつあることからも認められるところです.なにしろわずか10数年まえには「70−20(70歳での平均喪失歯数が20 本)」という状況だったのですから.
ところで「80歳のお年寄りの口のなかに20 本の歯がある」というのは,考えてみれば大変なことです.歯科医師がきちんと面倒を見てあげることを続けていなければ,そしゃく機能を保つどころか,とんでもない「災いの元」ともなりかねないのです.
お元気なうちはまだよいでしょうが,ご不自由が生じて口腔ケアが不十分となれば,う蝕も歯周病も容赦なく進行するでしょう.7 0 歳以上の高齢者にとっての最大死因である「肺炎・気管支炎」のかなりの部分が不潔な口腔と関連した「嚥下性肺炎」であることを指摘しておかなければなりません.
こうした患者さんへ適切な歯科医療を提供することが,これからの歯科医師の重要な責務になるわけですが,前述しましたように「元気な外来患者」と同様に取り扱うわけにはいかないのです.
実際の訪間歯科診療では,痛みその他の急性症状への対処を求められることが多くなります.歯科医師の習性として,痛い歯があればただちにその処置に取りかかりたくなるところですが,「歯」を診る前に「人」を診ることを忘れてはなりません.
訪問診療時の事故防止のための具体的なノウハウについては,あらためてお話しするつもりです.
重大事故の大半は新患・急患で起こっている
「歯」だけに目を奪われて「人」を見落とすことから起こる医療事故はけっして少なくはありません.有病高齢者を治療する場合には,とくに注意が必要です.
ところで,重大事故の大半は新患・急患で起こっているという事実があります.以前から顔見知りの患者さんの計画的な治療では,全身状態の急変などのとんでもない事態が発生することはきわめて稀なのです.
ですから「飛び込みの急患」では強引な治療は禁物です.急性歯髄炎などでも,ストレスの少ない「応急的治療」で症状の緩和は図れるのですから,いきなり抜歯や抜髄などの「決定的治療」は原則的には避けるべきです.
新患・急患では,先生の側に「人」を診る余裕がない,つまり患者さんの一般状態についてまだ十分には把握していないことが多いばかりでなく,患者さんの側でも未知の環境で「なにをされるのかよく分からない」という不安・恐怖感が強く,こうした精神的スト
レスの危険を無視するわけにはいきません.
従ってこの段階では,まずは対話を通じて医者一患者の人間関係を確立し,必要な情報を得るとともに患者さんへのオリエンテーションをなによりも優先すべきです.これが「安全な歯科治療」のためのファースト・ステップなのです.
患者さんの信頼を得るためのコミュニケーションの技術も,歯科疾患の診断・治療技術に劣らない重要な医療技術であることを忘れないでください.
最大の危険因子は痛みとストレス
適切なコミュニケーションを通じて患者さんの不安・恐怖感を緩和することができたら,次に大切なことは「痛くない歯科治療」の実践です.
歯科治療処置を無痛化するための最も有用な手段は局所麻酔です.ところが,歯肉への麻酔注射の直後に患者さんの状態が急変して,あわてた経験をお持ちの先生が少なくはないのではないでしょうか.そのためもあってか,患者さんばかりでなく先生方のなかさえも「注射恐怖症」をみることがあるのはなんとも困ったものです.
こうした異常事態を「麻酔薬によるアレルギー?」
とお考えの先生もおられるようですが,若い人が歯科治療時にショック状態になったとしたら,そのほとんど全部が痛みや精神的ストレス,あるいは三叉一迷走神経反射による「神経性ショック」です.ただし,高齢者や有病者ではその刺激に誘発された発作や既存疾患の急性増悪だという可能性もあります.
ちなみに,現在の日常診療で多用されているアマイド型の局所麻酔薬そのものは,安全域が広い上に(不整脈の治療ではキシロカインを静脈内注射することもあるほどです),アレルギーの可能性も皆無に近く,安心して使える薬剤のひとつと考えられます.
つまり,薬理学的な副作用よりも,注射に伴う痛みや精神的ストレスにまず注意を払うべきなのです.
「痛くない歯科治療」は,日常臨床を安全なものとするための最も大切な前提条件のひとつです.その実際については,稿を改めてお話しいたします.
まとめ
今回差し上げた「安全な歯科治療」のためのヒントを箇条書きにしておきましょう.今回は総論的なお話でしたので,それぞれの各論については,回を追ってお話しさせていただく予定です。
1.「歯」を診る前に「人」を診る ま ずは「急ぎ足での歩行や階段の上下で動悸や息切れを感じたことがありますか?」とおたずねしてみてください. 寝たきり伏態の方には,口のなかを診る前に脈をとってみましょう. 2.新患・急患には無理をしてはならない 初 対面の患者さんにいきなり抜歯や抜髄は乱暴なことです.注射や歯質切削も慎重に. 3.まずはコミュニケーションの確立を 対話を通じて患者さんとの人問関係を確立し,不安・恐怖感を緩和しましょう. 4.「痛くない歯科治療」 「病気を治すのだから少しぐらいは我慢を」は医者の思い上がりです.自分にしてほしくないことを患者さんに強制してはなりません. そして「無痛化のための麻酔注射が痛い」はナンセンスです.
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(つづく)